営業時間:昼11:30〜14:00
夕17:00〜21:30
定休日:火曜日(火曜祝日の場合、水曜日)
TEL 0465-23-2029
住所 小田原市栄町1−4−9
修行時代:後編
人物評
季節の特別料理
平野鉄也氏は昭和40年2月、地元小田原市に生まれた。それから40年。
独立して今の場所に静蓮を開店してから8年になる。
外見は眼鏡をかけた修道僧のようであり、中味もまた料理を追及する求道者のごとくである。インタビューのこの日、店が休みにも関わらず、平野氏は一人で厨房に立っていた。
「明日の仕込みがありますから」
料理の道は、一筋の長い道である。
--:もともと御実家が中華料理屋なのですか?
平野:いえ、普通のサラリーマン家庭です(笑)。
--:食材や中華料理に関係のあるお仕事でしたか?
平野:いや、まったく料理とも無関係です(笑)。だから、誰かに言われてこの仕事を選んだということではないんですよ。理由?うーん、中学生の時に読んだ本、でしょうか。杉森久英さんの「天皇の料理番」という本です。いい仕事をすると、感謝の気持ちをもらえる、そういう仕事があるとその本で初めて知りました。お金のためだけじゃなく。いや、商売としてはお金も大事だとは思いますが、それを越えた価値もあるということが、その頃の自分にはすごく新鮮でした。
--:中学生の時から、料理人を目指して?
平野:いや、そりゃいろいろ迷った多感な時期もあります(笑)。親がやっているようなサラリーマンには向かないと自分で分かっていましたし、そもそも勤まる自信がありませんでした(笑)。英語が苦手で学校の勉強はあまり好きではなかったですね。プロレスラーに憧れて毎日千回の腕立て伏せをやってたことも、、、でも、プロは2千回やらなきゃいけないと知って、僕には無理だと思いました(笑)。
笑いながら話す平野氏の腕は、太い。相洋高校では柔道部に入り、さらに部活が終わった後は町の空手道場に通っていたそうである。しかし残念ながら柔道の練習中に頚椎挫傷の大怪我を負って、武道からは遠ざかることになった。
平野:通っていた空手道場の師範が接骨院の先生でして、整体師の道も考えたことがありました。でも、先生に「治療して体が治れば患者に喜ばれるかもしれないが、おまえ自身はその仕事に自体に喜びを感じることができるのか」というふうに諭されまして。それで結局は料理人の道を選ぶことにしました。食べるのも作るのも好きだったし、それが自分に合ってるような気がしまして。振り返ると、先生はそういうところまで見通していて助言をくれたのかなと思います。
その恩師の方は、15年程前にガンに倒れて惜逝されたという。8年程前に偶然知り合った小田原駅西口の名店「あうん」の御店主が先生の妹だと知って驚いたという話も。世間は不思議な縁でつながっている。
平野:高校3年になると、いよいよ進路を決めなくてはなりません。僕は調理師学校に進むことに決めました。で、日本料理なら京都、中国料理なら東京で修行したいと思ったのだけれど、まだどちらの料理を専門にするとは決められません。そこで、両方の土地から求人がある大阪の学校を選びました。大阪で候補にしていた学校はいくつかありました。当時は小田原から大阪の見学会に行くのに旅費まで出してもらえた時代でして。複数申し込んで、数日かけて方々の見学会をハシゴして、浮いた金を宿泊費に充てたりしましたね(笑)。自分の勉強する先ですから見ておかないと不安でしたし・・・懐かしい思い出です。
-- :それで、どちらに?
平野:日本調理師専門学校に決めました。その方が30万ぐらい安かったので。印象が特に良かったわけではないんです。むしろ他の学校の方がいろいろとサービスが充実していたり、有名講師などが在籍していたりと特徴があったのですが。これからこれからこっちは勉強にいくわけですよね。「大切にされる待遇」にどうも違和感を覚えました。あとで授業内容を聞いてみると、他の学校の方が充実してるようだったのですが(笑)。僕には、放任主義的な日調の方が水が合ってたと思います。これは人それぞれでしょうね。
-- :学校ではどういう内容を?
平野:調理師学校では和洋中とひととおりの基礎をやりました。学校はあくまでも基礎までで、それ以上は結局就職して修行することになります。だから就職先をどう選択するかで、初めて自分の専門を決まります。
-- :なぜ中国料理に?
平野:フレンチは料理が構成的で、僕にはしっくりきませんでした。そもそも僕自身が食べ慣れてなかったし(笑)。和食は関西料理を学んだのですが、とても特殊な料理に思えまして。京都の水と野菜があって、さらに和食を食べ鳴れた人のための技法や味、という感じがしました。例えば真竹を料理するのに事前にさっと日本酒で処理するのですけど、しなくても十分に美味しい。でも、両方を並べて食べ比べれば分かる。逆に言えば、そこまでしないと差が出ないような技術の集大成なんだと思いました。もちろんそれはすごい技術の蓄積なんですが、、、しかし、それだけ繊細だと東京の硬水や野菜ではやっぱり苦しい。
僕自身はこっちに戻ってくるつもりでしたので、東京圏でやるなら中国料理がいいなと。そう思いました。
補追しておくと、平野氏はフレンチや和食を低く見る意図は何もない。自分の目指す先に向いているかどうか、という点での話なので誤解の無きように。
-- :それで、就職先は中国料理店にされたわけですね。
平野:首都圏からですと、横浜の重慶飯店と赤坂の四川飯店から求人が来ていました。重慶飯店はうちの学校から卒業生が何人も就職していて先輩がいて、さらに講師として契約している先生もいました。
赤坂四川飯店の方は、採用数は多かったけど、それ以外には何もなし。
-- :普通は重慶飯店を選ぶのでは?
平野:でも、そこに先輩や先生がいるということが、自分にとって何になるのか。コネがあった方が何かとラクで楽しいかもしれないけど、そもそもそこに遊びに行くわけじゃなくて、修行にいくわけですよね。群れて馴れ合うことが自分にプラスになるとは思えませんでした。
-- : でも、大変な選択を続けてますね。
平野:当時学校に特別講師で来た神田川俊郎さんがいいことを言ってくれたんですよ。
「”見習い”の意味を知っているか?見習いは”見て習う”のが仕事だぞ。頭を使う作業がないから、回りを見て上の人間が何をしてるか、見て覚えられるだろ?それが出来るか出来ないかで大きな差がつく。」
これを聞いていたから、きつい修行時代をやり遂げられたのかなとも思います。振りかえると、学校時代に学んだことで、この一言が一番大きかったかも知れません。さすが神田川さん、と今になって思います(笑)。
そして卒業後、平野氏は四川飯店に就職を決めた。当時の初任給は5万数千円だったそうだ。当時はバブル期の真っ只中であったが、それには背を向けたかのような過酷な修行時代が始まった。
平野:調理師学校の生徒は、卒業前の2月や3月頃からもう住み込みの見習として働き始めます。僕は当時足にちょっと傷があったんで、それを治してから2週間ほど遅れて四川飯店の池袋店に入りました。見習の仕事が厳しいとは知っていたので、足を引きずりながらでは仕事になりませんから。3月の終わり頃だったかな。そうしたら、15人採用されたはずの新人は、もう2人辞めていていなかった。
覚悟は出来ていましたが、さすがに凄いところだなと(笑)。
-- :かなりきつい職場でした?
平野:6畳2間の寮の部屋に、新人6人がスシ詰め。しかも先に入った人間が先輩風を吹かせていて、片方の6畳を二人で占領していまして。仕方なく残り4人で6畳を使っていました。
でも、どんどん減るんですよ。
5月に連休をもらえるんだけど、それで何人かは帰ってこない。8月のお盆の忙しさで、さらに数が減る。
秋になったら、2店舗で15人入ったはずのこの年の新人は、池袋店には2人しか残っていなかった。
同じ年の友達は皆、遊んでいたり楽しくバイトしていたりですから。それを見て羨ましくなったり、挫けたりするんでしょうね。同じ年でも、学生の人たちとは世界が違うわけですし。
--:どういう仕事内容だったのですか?
平野:最初はホールに回されます。注文をとって、料理を運んで下げる。それには「完成品を見て覚える」という意味があるんですが。でも、そんなことはいちいち教えてくれたりはしません。自分で考えて、覚えないと。それと、僕らの職業の基盤は、料理にお金を支払ってくれるお客様に支えられているんです。ですから、お客様と接するのが最初の基本だというお店の方針でした。
それから洗い場、道具のセット、材料の仕込み、という風にだんだん見習は場所を移されます。ある日突然、今日からお前はここ、と上の人に言われます。練習もないし、誰かが付きっきりで教えてくれるわけでもありません。でも次にどこのセクションをやらされるかは先輩を見てれば分かるから、自分の仕事を早く終えて、事前に見て覚えておくわけです。それが出来ないと、そこで詰まって辞めていく。一年目の時に、そういう先輩を何人も見ました。
最初は見習い7人ぐらいでやってた仕事が、櫛の歯が欠けるようにぽつぽつと数が減って、最後には2人でやらなくちゃならなくなった。そうなると手の速さだけではダメで、仕事の段取りがとても重要。少しでも早く終わらせて、上のセクションのところに行って仕事を手伝う。朝の7時前に行って、終電で帰る毎日。そうやって仕事を覚えて行くのが、四川飯店のやり方でした。
平野:そうやって新人を振るい落としていく方法が良いのかどうかは、時代やいろんな考えがあるからなんとも言えないですが。でも、お店の質を維持しようと思ったら、やっぱり出来ない人に合わせていくわけにはいきません。
四川飯店の創業者の陳建民氏が給料についてこう仰っていたそうです。「給料を貰って、お店に感謝するのではなく、お客様に感謝しなさい」。
自分達の仕事でお客様からお金を頂くわけだから、その教育は徹底していましたね。
中編に続く